Koma gallery 特別企画-2 Guest Talk/前編
(インタビュー=髙橋義隆 文/構成=松岡瑛理 写真/企画=植田真紗美 山口美桜 企画= 山中南実)
座談会の様子(左から有元伸也、高橋義隆、山中南実、山口美桜、鳥原学)「武蔵野プレイス」にて。
日本における自主ギャラリー的な動きはいつ頃から始まったのか。現在までその動きはどのような形を汲んできたのか。今後はどうなっていくのか?
Koma galleryオープニング企画としてゲストにTOTEM POLE PHOTO GALLERY設立者で写真家の有元伸也さん、写真評論家の鳥原学さん、Koma galleryメンバーの植田真紗美、山口美桜、山中南実、進行役としてライターの高橋義隆さんの6人で自主ギャラリーをテーマに座談会を開催しました。
座談会の前半では自主ギャラリーの変遷や現状について、後半ではスタートを切ったKoma galleryのこれからについて語り合いました。
写真家9名の共同設立ギャラリー
高橋:はじめまして、こんにちは。司会の高橋です。今日はKoma galleryの開廊を記念してのイベントということで、まずは今日の参加メンバーから、ギャラリーについて説明をお願いします。
植田:こんにちは、今日はどうぞよろしくお願いします。
Koma galleryは写真家9名による共同運営ギャラリーです。経歴や作っている作品はそれぞれ違いますが、共通点は同じ専門学校(日本写真芸術専門学校)の出身であるということです。
山中:もともと、昨(2020)年春のオープン予定を予定していたのですが、新型コロナウイルスが国内で猛威をふるい始めたタイミングと重なり、物件探しごと止まっていました。今年(2021)年の1月にようやく今の物件とめぐり会えまして、開廊までこぎつけることができました。
山口:場所を恵比寿にしたのは、何と言っても東京都写真美術館が近くにあるからです。写真関係者もそうでない方も、展示を見に行った帰りにはふらっと立ち寄って欲しいなという思いを込めて選びました。
戦後、写真家たちが目指した「自立」
高橋:写真家が自分たちのメディア、場をもって作品を発表する場合、「印刷媒体」と「ギャラリー」の2つがあります。ギャラリーについて述べると、美術館やメーカー系のギャラリーとは別に、写真家たちが共同で運営するフォトギャラリーが「自主ギャラリー」と言われています。Koma galleryもこの系譜に属するということで、今日は後者を中心にして話していただきますが、はじめに写真における自主的な表現媒体の歴史について振り返っていきましょう。
自主ギャラリーが登場したのは1970年代に入ってからですが、その先駆的な活動として1968年に刊行された写真同人誌『PROVOKE』があります。中平卓馬(写真家)、多木浩二(評論家)、高梨豊(写真家)、岡田隆彦(詩人)がメンバーで、2号から森山大道(写真家)が参加します。
山口:伝説的な同人誌ですね。
高橋:はい。1970年に発行した3号で休刊し、わずか2年の活動でしたが、大きな影響を与えました。そして1974年、東松照明を筆頭に森山大道、荒木経惟、深瀬昌久、横須賀功光、細江英公が講師として参加した「WORKSHOP・写真学校」が開講します。この学校から派生して、2つの自主ギャラリーが誕生します。「IMAGE SHOP CAMP」と「PUT」です。前者は森山教室、後者は東松教室の生徒を中心に設立されました。同時期に東京綜合写真専門学校の生徒を中心にした「プリズム」が2年限定で開設されます。これらのギャラリーは1976年に始まっていますが、この前後の時期に若手を中心にインディペンデントな動きが活発化したことは、同時代的な意識の動きがあったと考えられます。
植田:日本ではこの時代に写真家たちは同人誌や自主ギャラリーという形で、自分たちで表現の場を作り出していったのですね。
高橋:そうですね。80年代に入ると「CAMP」や「PUT」は解散し、自主ギャラリーは沈静化します。1987年に森山大道が渋谷の仕事場を改装して「Room801」を開設すると、森山の教え子であった瀬戸正人、山内道雄が四谷に「Place M」を同じ年にオープンします。翌年には尾仲浩二が西新宿に「ギャラリー街道」を開設。90年代に入ると新宿三丁目に関美比古らが「ガレリアQ」を、笹塚に楢橋朝子が「03FOTOS」を開設しました。
2000年代に入ると、自主ギャラリー的な動きが徐々に増えていきました。今日ゲストにお越しいただいている有元伸也さんも、2006年に「Lotus Root Gallery」を、2008年には同じ場所で運営体制を変えて「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」を開設し、現在は中国、韓国、アメリカなど多様な国籍のメンバーが在籍しています。1960年代以降のこうした動きについて、鳥原さんはどのようにご覧になっていますか。
鳥原:僕は1965年生まれで、『PROVOKE』の創刊時は3才でした。当時を直接的に知るわけではありませんが、一つ言えるのは、自主ギャラリーを含む日本の写真表現は戦後、一貫して「自立」を目指していたということです。
「自立」とは何かというと、アーティストが資本の力に頼らず、自分たちの表現の場を持つことです。メーカーに資金援助を受けたり、商業媒体で指示を受けて写真を撮ってくるのではない。自分たちが自らマネジメントに関わって、本来撮りたかった写真を撮ることを目指していく。そのような意味で、当初の自主ギャラリーは、既存メディアに対するカウンター(対抗運動)としての意味合いが強くありました。
その後、運動色は徐々に薄らぎ、2000年代以降は、代わりにワークショップやイベントを催すところが増えてきます。ギャラリーは写真家たちによる開かれたコミュニティ、例えるなら「シェアオフィス」や「コワーキングスペース」のような場所に近づいていると言えるでしょう。
ご自身のギャラリー開設から10年以上が経ち、有元さんは現在のギャラリーのあり方をどのようにご覧になっていますか。
有元:そうですね。僕はまず、Koma galleryのメンバーに同じ質問を投げてみたい。今日の参加者は20~30代ですが、この40年間の歴史をどういう感覚で受け止めていますか。
植田:私は1986年生まれですが、お話の多くは生まれる前の出来事で、どちらかというと「資料」に近い感覚で話を受け止めていました。今と比べると、時代の違いもあったのではないかと思います。特に黎明期は、「ギャラリー」という発表の場を持つことのハードルもより高かったのではないかと想像しながら話をお聞きしました。
有元:僕自身もそっちです。生まれは1971年で、『PROVOKE』が創刊された時には生まれてもいなかった。もっと言ってしまえば、そもそもは「自主ギャラリー」という存在自体、閉鎖的なイメージを持っていて好きになれなかったんです。
なので、自分でギャラリーを始める時には運営の仕方も一工夫しました。例えばTOTEM POLE PHOTO GALLERYでは運営を分業制にしています。僕自身はギャラリーの設立者ではあっても、「代表」とは名乗りません。運営の主役はギャラリーメンバー一人一人で、お互いの提案に対して 「NO」とは言わない。その代わり、提案者が主導権を持ってクオリティを上げるというのが最低限の決まりです。
メンバーが入れ替わると、ビジョンもその都度変化します。去年から今年にかけてはコロナ禍もあり、オンラインでゲストライブを行ってみたりと、新たな試みも行っているところです。
座談会資料(左から、鳥原学(2021年)『平成写真小史 「写真の終焉」から多様なる表現の地平へ』日本写真企画、金子隆一(ほか編)(1989年)『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976-83』東京書籍)」
「自由な表現ができる場所」としてのギャラリー
高橋:Koma Galleryのメンバーの方たちに質問があります。ギャラリー運営には人手もコストもかかる分、大変なところもたくさんあります。そんな中でもギャラリーに参加しようと思ったのは、どのような意気込みだったのでしょうか?
植田:専門学校を卒業後、出版社の写真部で働きながら、個人として創作活動を続けていました。その過程で発表した作品がファイナリストとなり、展示の機会に恵まれるということがあったんですが、思うような表現ができなくて。そんな折、タイミング良くギャラリーにお誘いをいただいたんです。
展示の場合、三次元という特性を生かしてプリント、壁装飾、映像など、インスタレーションに近い形で作品を発表できます。今まで出せずにいたアイデアを活かして、自由に表現できる場所を作ってみたいという気持ちが膨らみました。
山中:私は2019年に専門学校を卒業して、今はアルバイトをしながら作品制作を続けています。ひとりで制作をしていると締切がない分、撮影を先延ばしにしたりと、だらだらと過ごしがちで。展示のスケジュールが決まっていて、同じ志を持った方たちとコミュニケーションを取りながら作品をできるというのは理想的な環境だなと。
山口:私は専門学校在籍中、講師の方から立ち上げのお話を伺って参加しました。魅力的に感じたのは、定期的に作品を作って出せる場があるということ。山中さん同様、1人で作品を制作していると、何度も作り直しをした挙句に完成しないこともあります。ギャラリーの場合は予定も決まっているので、モチベーションの配分がうまくできそうだと感じました。
お金よりも、作品がない方が辛い
鳥原:さきほど有元さんがおっしゃっていましたが、もともとギャラリーというのは入りにくい場所でした。僕は20代前半に東京に出てきたんですが、初めてギャラリーを訪れたときには、「素人お断り」という強烈な雰囲気を室内から感じました。
有元:東京に来て最初に来たギャラリーも、すごく入りにくかった。階段を上って部屋まで向かうときの恐怖感を今でもよく覚えています。その分、自分がギャラリーを開く時はお客さんには同じ思いを味わせたくなくて、1階にこだわって場所探しをしました。
植田:お話を伺っていて、会員制バーにも近い雰囲気があるのかなと思いました。最近はニコンなどメーカー系のギャラリーが減少する一方、自主ギャラリーも再注目されていたりと、新たな流れが出てきているように思います。
有元:僕が写真学校を卒業した当時、作品を発表する最も有力な選択肢はメーカー系のギャラリーでした。でも今はSNSの登場によって、おっしゃるように小さなギャラリーでも十分発信力を持てるようになってきています。
植田:例えばアートブックフェアもそうですが、今は企業の力を借りなくても、個人単位で作品の売買を行うことができます。作品制作と経済活動の両立について、有元さんはどのようにお考えですか。
有元:僕自身は、お金によって自分自身が作りたいこと、やりたいことを左右されることへの抵抗心がある。「お金がない」ことよりも、「作品がない」ことの方が辛いです。
山中:地道ながらもコツコツと活動を積み重ねた結果、仕事につながる出会いがあって現在に至るという感じなんでしょうか。
有元:20代の時に『西蔵より肖像』という写真集を初めて出し、新人や若手カメラマンを対象とした賞をいただだけたことは大きかったです。その後の写真人生でもしんどいことはたくさんありますが、写真を撮り続ける上での原動力になりましたね。
<→後半に続く>
<ゲスト>
鳥原学(とりはら・まなぶ)/写真評論家
1965年、大阪府出身。近畿大学卒業。日本写真芸術専門学校主任講師、東京造形大学、武蔵野美術大学、東京ビジュアルアーツ非常勤講師。2017年、日本写真家協会賞学芸賞受賞。著書に『日本写真史(上·下)』(中公新書、2013年)、『「写真」のなかの私』(ちくまプリマ―新書)、『時代を写した写真家100人の肖像(上·下)』(玄光社、2018年)など。
有元伸也(ありもと・しんや)/写真家
1971年、大阪府出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪卒業。1998年、第35回太陽賞受賞。2008年 『TOTEM POLE PHOTO GALLERY』を設立。2017年、日本写真協会作家賞、林忠彦賞受賞。
髙橋義隆(たかはし・よしたか)/ライター
1975年生まれ。著書に『言葉の果ての写真家たち』(青弓社刊)、共著に『日本の現代写真1985-2015』(クレヴィス刊)。
<構成>
松岡瑛理(まつおか・えり)/ライター
早稲田大学第一文学部美術史専修卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位習得満期退学。2018年より『サンデー毎日』記者。2020年より『週刊朝日』記者。
<Koma gallery所属作家>
植田真紗美(うえだ・まさみ)/写真家
東京都出身。玉川大学、日本写真芸術専門学校卒業。新聞系出版社写真部、東京都広報課写真担当を経てフリーランス。2012年、第1回キヤノンフォトグラファーズセッショングランプリ(キヤノン賞)受賞。2018年、第19回写真 「1_WALL」 ファイナリスト。写真集に『海へ』(trace、2021年)。2013年より写真作品の発表場として写真誌『WOMB』を制作、発行。2021年「Koma gallery」を設立。
山口美桜(やまぐち・みお)/写真家
茨城県出身。写真館に転職した際に写真作品に触れ日本写真芸術専門学校へ入学。翌年「Koma gallery」の設立に参加。同galleryで「うきぐも」「日食む」の作品を発表。風景や景色を主な被写体としてテーマは様々に作品を制作している。
山中南実(やまなか・みなみ)/写真家
1997年、東京都出身。日本写真芸術専門学校卒業。2019年、Alt_Mediumにて「andante」開催。2021年、「Koma gallery」を設立。「日常のなかにある生」をテーマに作品を制作している。主な作品に「andante」「今日の花を摘む」がある。